大阪市渡辺氏邸に関する資料


渡辺氏

 主屋と長屋門、土蔵等からなる一廊をよく保存し、江戸時代における富有な郷士の屋敷の姿をの姿をとどめている。
 もとは八畳四間取であって、それに桁行五間半に亘る広い土間を付属させたものであったと思われる。この建物は当地方で類例の無い点があり、主屋の建った年代は、諸点を総合して或いは江戸よりも古いものではないかと思われる。

昭和四十年一月二十五日
大阪府古文化記念物等保存顕彰規則により重要美術品として指定。

昭和四十二年三月 
大阪府教育委員会

注意
一、 火気に注意し、建物の付近で焚火をしたり、煙草を吸ったりしないこと。
一、 附近でボール投げや土投げをしたり、建物に車を当てたり、落書きをしたり等して、建物を毀損しないこと。

大阪府重要美術品 渡辺氏邸 立て札より


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大阪市教育委員会にある資料によると渡辺邸は大阪市内最古の民家で大阪府内でも2番目に古い民家です。
(写真をクリックで拡大出来ます)

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渡辺マサヱ家住宅(2) 淀川区西三国三丁目

 渡辺家は渡辺綱の後裔とも伝える。長屋門や倉、附属舎で囲まれた屋敷構えの中に壮大な主屋を配しており、古くから当地の土豪であったことには疑いない。主屋は現在、平入茅葺で九間取りの奥に座敷を二間造り、また主屋の表奥に式台と玄関を配する。しかし主屋の大部分は後世の改造をうけ、建築当初の規模が知られるのは表半分のごくわずかでしかない。ところが、この残存部分を能う限り復元してみると、従来みられなかった型となり、それらの点から推してその建築年代が十七世紀初頭を降らないものと推定されるのである。次にその概要を述べてみる。

 現状と復原

土間部分は梁行六間、桁行は現在三間半であるが、土間添いの二室は、いずれも後補である。このことは表よりに三間裏に通る極めて太い牛梁が室鏡より三間奥の大黒柱に架かり、その上部の梁や天井は土間の延長とみられているこことよりわかる。従って当初の土間の桁行は実に五間半という広大なものとなる。また土間裏二間は現在登り梁を屋根の叉首中間の野中(母屋桁)にかけ、不自然な方法で裏庇を造っているので、これは後の仕事であり、当初は背面に一間程度の庇がつき、土間の梁行が四間半位で終っていたと考えられる。また大黒柱にかかる牛梁下で土間を表裏に仕切る結界も当初はなく、マヤは別当とされ広広とした土間が展開していた。居室の裏に並ぶ庇下も当初は一間幅程度であったと思われる。現在の主屋の奥にあるザシキと主屋の式台、玄関も後補である。従って居室は四間取り部分のみが残されていることとなる。この四間は現在整形になっており、復原した当初の土間に添って表がクチノマ、裏がダイドコで、奥の表がザシキ、その裏がナンドになる。クチノマ、ダイドコの土間境開口は、現在差鴨居二本溝であるが、当初は一本溝であって、クチノマ差鴨居の表半間と、ダイドコの裏半間に戸袋を設けていた。クチノマの表開口は不明であるが、恐らく中央に柱が建つ方式であったと思われる。現在
ダイドコとクチノマ間に普通の鴨居を入れているが、この箇所は最も注意を要する。即ちこの鴨居は材が新しく、かつ大黒と内大黒には他に鴨居が取付いていた痕跡が見当らない。また両大黒柱の下部に向き合って踏み込みの痕跡がある。当主の話によれば、この間には中央でやゝ高くなったカーブをもった踏み込みが入っていて、鴨居がなく、両室間は開放されていたらしい。開放されていたとすれば、むしろ他地方の広間型に通じるものがある。大阪平野ではこのような型は、後述の十七世紀中頃のものと思われる政家家住宅と二棟のみしか見られないのであるが、共に構造上は整形四間の場合と全く同じであるので、この二棟をもって直ちに広間型と結びつけることは無理である。何れにしても甚だ特異な手法である。しかし特異性はこの個所のみではない。まず、内大黒柱の表面に木舞の痕跡があり、元は壁が表方向に延びていたことがわかる。また内大黒より表へ半間の位置と、さらに半間表の位置に、現在クチノマ、ザシキ間の差鴨居上に太い束が存在しているが、この差鴨居の材は仕上げからみて後補であり、二本の束は元柱として延びていたと見られる。そうすると、この両室境二間は内大黒寄り一間が壁で、残り表方一間のみが開口であったことゝなる。また内大黒の一間奥の柱の表面に貫と木舞の痕跡があり、さらに半間表にも柱を切られた痕跡があるので、少なくともこの半間は壁となる。内大黒と奥一間の柱間は現在仏壇をナンド内に入り込ませているが、元は不明となる。さらに奥の元妻側柱との間は一間の開口となっているが、これも対応する柱に壁の痕跡があり、当初は閉されていた。その妻側柱から半間表の柱も古く、この間は今も壁であるが、その他のザシキ廻りは甚だしい改造のため原形がわからない。次にダイドコ、ナンド境であるが、この間の差鴨居も中古に入れられたもので、この開口二間の中央には元柱が延びていた。またナンドの内部を見ると、その元柱から一間奥にも柱を切断された上部が残っており、その柱とザシキ中央の柱で囲まれる二畳分の天井は、他の部分と別に掉縁天井がやゝ低く張られた状態で残っている。そうすると前述のザシキの方に突出する部分と連なり、こゝに三畳の囲まれた室ができる。この室は仏間であった可能性が強いが、このような取り方をした室は他に例を見ないのである。この家は、土間が極めて広いこと、平面が他に類例のないこと、わかる限りでの柱間装置や、材の古さ、および木割の太さ、建ちの割合に低いこと等から判断して、特異な民家であり、その建築年代は極めて古いと思われる。

大阪市教育委員会「大阪府の民家2 大阪府文化財報告書 第16輯」昭和42(1967)年3月 P8,P9より

整形四間取型民家の歴史的考察

一、 年代考証(編年指標)

民家の発展段階を知るためには、前節で扱ったように各戸ごとの復原調査を行った上で、年代の明らかものを規準として、その他の家を構造手法等から判断して年代順に並べてみなければならない。そのためには、発展段階のよく理解できる箇所を出来るだけ多く採りあげ、古い構造手法の部分の多い家から少ない家を順次配列した上、総合判断に基いてその前後関係を求める必要がある。このようにしてとりあげた各部分を編年指標となずけておこう。
そこでこの指標として役立つものをあげてみると、柱間装置やナンド構えの解放化、及び内大黒柱に差される差鴨居の数の増加などがある。その他の部分は特に時代による明瞭な変化は乏しいようである。

柱間装置

柱間装置としては、土間の居室鏡(クチノマとダイドコ)、居室の外部開口、および室内の間仕切り(特にクチノマとダイドコの境)がある。
土間と居室境は挿図五のように、開放性と開閉の自由度を増し、しかも簡素化する方向に進歩している。なお少数例として、ダイドコと土間の境に建具をはめる溝のない差鴨居(無目の差物)を用いていることもある。これは、整形四間取りの発達している圏内では、十八世紀中頃以降にしか見出せないものであるが、地方では古くから一般に行われている。
外部開口の装置は、挿図六のように変遷する。新しくなると縁を設け、縁側の雨戸を設ける場合もある。要するに古式は閉鎖性が強いが、時代が降ると開放的となる。
室内の間仕切りのうち、クチノマとザシキの境には、二本溝の差鴨居が早くから用いられており、これはそのまま変化しないので編年指標とはなり難いが、クチノマとダイドコ境につき止めの差鴨居を用いる例は一八世紀には殆んど見られない。これは古式であるから、二本溝や多数溝のものと前後関係が求められる。

ナンド構え

ナンド廻りの変遷の大要は、後述の平面の発展の項で述べるが、ここではダイドコとナンドの間の装置(ナンド構えと称する)の変化する段階を記すに止める。挿図七のように、古くは開口が半間しかなく、しかも多くは踏み込み(敷居を少し高くとりつけまたいで入るもの)をもっていたが、次に一間の開口となり、さらに柱間一ぱいに開口をとる方向へ進むようになる。しかし時代が下っても、半間の開口や踏み込みを持つ古式の家も極めて少数ながら存在するので、細かい時代の区分けとなるとこれだけで絶対の決め手とはならない。
ナンドの側壁は、通常妻側と裏側にあり、古い例では、いずれも土壁で閉鎖されるが、次第にどちらかに開口を持つようになり、最後には両方共開放される場合が多くなる。しかし、はじめに閉鎖されていたものも後に改造して明るくする家が多いため、原型の痕跡が失われてしまう場合も案外多く、指標として役立つ例が少い。

内大黒に差される差鴨居の数

整形四間取りの場合、内大黒柱は居室の中心になって、構造上重要な柱である。従ってこの柱に差鴨居が四方から差される(四方差)柱自体が甚だ弱くなる。また若し柱を太くすると、柱が畳の隅にはみ出して、おさまりが悪くなる。そこで内大黒柱には差鴨居を多く差さない考慮が払われる。古い例では
クチノマ、ダイドコ間と、クチノマ、ザシキ間の差鴨居のみを差すが、次第に
ナンドとダイドコ間と、さらにはナンドとザシキ間の差鴨居を差し、三方差、四方差へと進む。しかし特例もある。(田中啓二家住宅は、宝永六年という古さの家であるが、四方差を用いる。)この位置で差鴨居の数が増すことは、それだけナンドが開放的に進むことと比例するが、これも一応編年指標とすることはできる。

(編年)
前節で整形四間取り系統の主要な民家五十棟について詳説してきたが、この内建築年代が確実にされたのは次の六棟である。
山添文造家住宅 宝永二年(一七〇五) 棟札
田中啓二家住宅 宝永六年(一七〇九) 普請帳
松宮仁平家住宅 寛保四年(一七四四) 棟札
上武治正家住宅 寛政二年(一七九三) 記録
中西要彦家住宅 寛政五年(一七九三) 棟札
森 尚成家住宅 安政四年(一八五七) 普請帳

右の他に、森田三郎左衛門家住宅では、元禄一六年(一七〇三)の棟札があったと
言われておる。以上七棟を通覧しても。一八世紀初頭、」中期、末期、および一九世紀中頃と、一八世紀以降の民家の変遷のあらましがわかるわけである。しかし、この他に過去帳の記載や祈禱札、系図の記載或るは言い伝え等によって、ある程度の年代が推定でき、しかも建物自体の古さと比べてその信頼度の高いと思われるが一三棟も数えられている。
よってこれらの家を、一応年代順に並べ、前記の柱間装置、ナンド廻り等最も発展段階の目に立つ箇所を指標にとり、残りの年代のわからない家をそれらと比較してその間にはめこみ、年代順に配列してみたのが別表である。田中静子氏の家は古風な家であるが、細部は殆んどが改造されてしまっていて指標として役立たないので、本表からは除外した。又、高林誠一氏の家も近世初期の重要遺構であるが、改造が多く編年の指標にとった部分が殆んど原形不明のため全般から判断して適当な位置に入れた。右の結果、指標の示す結果が揃って、新古の判定がはっきりできる家もあるが、ある指標では古形式をもちながら、他の指標では非常に進歩していて、必ずしも合理的には並ばない場合がある。このような場合は進歩した方の指標を重視して、適当に判断した。時代が下がっていても意識的に保守的に動くことはあり得るからである。以下編年における順位決定の経過を略記しておこう。

中(熊取)渡辺(三国)奥田(東住吉区)沢(和泉市)家住宅

いずれも改造が甚だしく、役立つ指標が乏しい。しかしわかる限りでは、いずれも吉村家住宅と類似の方式を見せているが、つき止め溝は全然用いられていない。四棟共中世土豪の家を名残をとどめ、木割は均正がとれているが全般に太く、土間は極めて広く、従ってその梁組も豪壮で、何れも元来は単純な整形四間取りではなさそうである。沢家住宅は過去帳より判断するとこの地に居を構えたのは江戸初頭よりもやや溯るようであり、奥田家住宅は、元和元年(一六一五)大阪の陣に焼け残ったと伝えられるが、沢家住宅には一部に二本溝の差鴨居を用いているので、奥田家住宅よりやや時代が降ると考えた。中、渡辺両家住宅は夫々異質な間取を持ち、まだ完全な整形四間取りへ移行していない点古い形式と推察され、特に中家古図には、同地の振井家の古図に類似のものが描かれていることからみて、或は由緒書からたどれる天正年間(一五七三~一五九二)を降らぬものである可能性も考えられ、最も古い遺構と判定した。


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大阪市教育委員会「大阪府の民家2 大阪府文化財報告書 第16輯」昭和42(1967)年3月P52,P53,P54,P55,P56,P57,P78より

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